脳内file No.35 影響を受けた映画
今日ひさしぶりに「フィフスエレメント」を観た。
劇場で観た時は、中学生ぐらいだったと思う。
ひさしぶりに観てみると、まじめ腐ったSF映画ではなくて、コメディーに近い映画なので良かった。
ホバーリングする自動車や宇宙船といった乗り物はありきたりな道具だけど、兵器とか衣装とかキャラ設定は面白かったな。
ゲーリーオールドマン扮するゾーグの衣装とかクリスタッカー扮するルービーロッドというキャラが特に面白かった。
兵器でいうと、武器商人のゾーグが不細工な殺し屋集団の異星人に多機能なマシンガンを披露するシーン。
小型ミサイルというか弾がどの角度から撃っても的に必ず当たるマシンガンで、その他にもロケットランチャーや毒矢ランチャー、捕獲用だろう網が飛び出たり、火炎放射器や一瞬で標的を凍らせる噴霧器が搭載されている武器。
これは多少、武器産業に対する皮肉を込めたギャグだろうな。
このシーンには落ちがあるんだけど、観てない人のために伏せておくことにする。
悪口に聞こえるかもしれないけど、これはブランド物オタクが好みそうな俗に言うところのスタイリッシュ映画だと思った。
ちょっと都会人かなみたいな感じ。
悪口のつもりで書いてはいない。
主人公も超がつくぐらいの美人で、モデル出身らしいし。
衣装のデザイナーも有名らしい。
とにかくお洒落だなと思った。
武器の話に戻すと、中学生の時に観た映画でもどこかで影響を受けてるんだなと思ったのが、映画の中でゴキブリを遠隔操作して黒人大統領の会話を盗撮するシーンを観た時だ。
すっかりこのシーンは忘れていたのだけど。
あまり記憶力には自信がない男なので・・・。
8か月ぐらい前に、SF物で考えていたのが正にこれだった。
敵の塹壕とか洞穴を偵察する際に、これはいけるだろうなと思っていた。
偵察用だけではなくて攻撃用にも使われたら恐ろしいだろうなと思って、あまりアイデアとして使えないかなとも思っていたけど。
斥候部隊だけではなくて他の部隊も昆虫や他の動物に替えられるなんて命を弄ぶ行為だしね。
でも、フィクションとしては面白いなと思いました。
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また脳内ナンバリング200まで一応ストックしといた
— 土長千 (@tutinagasen5523) February 1, 2016
また何か忘れるかも
混在ナンバリング2
前回の続き
※詳しくは、2015年12月17日付の記事混在ナンバリングを参照してください。
前回の記事でも述べた言語の多重化についてですが、その必要性に考えを及ぼすと、まず最初に思ったのが、使用頻度が高い言語ほど多重化が起こるのではないか?
または、その逆もありえるのか?
仮説でしかないですが、混在ナンバリングの前置きとして、ここで言語の多重化について述べておきます。
語感が心地よい言語、その言語を使う民族に心地よい語感があり、それでその言語の使用頻度が上がり、使用頻度が高い言語ほど誤用が度重なり、言語の多重化につながる。
会話や文章の前後と一つの言語に齟齬が起こったときにその帳尻合わせのため、言葉のやりとりのコミュニケーションの流れで本来の意味ではないがその場の空気で使って誤用した結果、微妙な新しいニュアンスが一つの言語に追加される。そういった経緯で言語の多重化が起こり、それが増すとその言語の使用頻度が高くなる。
そして、もう一つの可能性もあると思います。
語彙が幅広くあり過ぎるので、それを出来るだけ簡潔に一つにまとめようとした結果として言語の多重化が起こった。
バリエーションがあり過ぎる社会になると、組織やコミュニティーにとって中々共通認識を持つことが難しくなって、共同体をある程度まとめなければならない時にネックになってしまう。
特に言語は共同体のコミュニケーション手段として欠かせないので、ある程度人間の記憶力に耐えうる範囲の語彙にする必要が出てくる。
それをまとめる過程で一つ一つの言語に複数のニュアンスを重ねた。
それと、ただ単に語彙が多すぎて誤用の頻度が高くなり、それが高いほど言語の多重化が増える。
ただでさえ、一つの言語をとってみても誤用をしがちな人類が、過度で不必要なボキャブラリーを有していても、誤解を生みやすいのではないかと思うのです。
しかし、その誤解や誤用がプラスに傾く可能性もありうる。それが日本語を有するボクたち日本人にあてはまるのではないでしょうか?
ボキャブラリーが多い国ほど言語の多重化が起こやすい。
これは、他民族の言語を解する民族よりも起こりやすいのではないかとさえ思います。
なぜかというと、他民族の言語を誤用したところで、誤用された側がそのニュアンスを採用するのを認めないケースが多いからだと思います。
こういうふうに類推していくと、混在ナンバリングは一つの思いつきでしかありませんが、そういう流れの中の一つなのかもしれません。
前置きが長くなりましたが、混在ナンバリングの話を進めたいと思います。
混在ナンバリングとは何かというと、単純に脳内で一つの数字に他ジャンル同士や異種同士の詰め合わせを収納するでいいのですが、これだと何か煩雑で必要性がない感じを受けるので、言い方を変えると、一つの詰め合わせに数字のラベルを貼って識別しておくと捉えたほうが納得しやすいかもしれません。
そこから慣れていくと、その詰め合わせの袋から一つのネタを取り出して、そのネタから同じ袋に入った他のネタも連想できるようになることを念頭に入れて、その訓練のために混在ナンバリングの必要性について考えるようになりました。
一つのネタから全く畑違いでもいろいろ連想できることは、想像力の面で強みになると個人的に思っているのです。
従って今度は、もっと想像力を高めるための混在ナンバリングの応用として、詰め合わせ同士の組み合わせが考えられる。
ここで、それを踏まえた上で、混在ナンバリングの3つのパターンを紹介して今日はお開きにしたい。
その1【数字のラベル同士の組み合わせ】
数字のラベル同士の組み合わせで、傍目からはただの数字の羅列に見えても様々な意味が含まれている。
一つの数字のラベルが、他の数字のラベルと連関することで、それが自分の詰め合わせの袋から連関する数字に見合う適切なネタを選び、ちゃんとした意味が通じてその数字の羅列に中に込められる。
組み合わせで一つの数字をとってみても意味が違ってきて、それをする個人の思考が反映されて、その人独自のパターンを編み出せる。
見た目はただの数字だが、中身は複雑で、組み合わせの違いによって一つの数字の中の種類や意味が違う仕組みになっている。
その2【袋の中のネタ同士の組み合わせ】
これは、多少「その1」よりも難度が落ちる。
それぞれ袋の中のネタを取り出して、そのネタ同士の組み合わせをして、その一つ一つのネタが入った袋の数字のラベルを連想して、ネタの羅列を数字の羅列に変換するだけ。
その3【前者と後者のミックス】
「その1」と「その2」を組み合わせることによって、2つの異なる文章や暗号の組み合わせのリバーシブル化を実現しようという試みです。
前者と後者も言ってみればリバーシブル化なのですが、ここからさらに両方のリバーシブル化をします。
「その1」が文章や事象などに変換され、文章や事象などだった「その2」が数字化されます。
または、文章や暗号の中に別の暗号や文章を含ませる目的にも使えます。
裏返しの仕方も組み合わせによって、前者が裏返ったり、後者が裏返ったり、両方だったりと使い分けたりします。
一斉デトックス 油断編
よく映画やアニメなどでありがちな悪玉キャラとして、人を油断させて落とすタイプがいる。
はじめに言っときたいが、ボクは決してこういうタイプにはなりたくないので、そこだけは留意してほしい。
あくまで、ラノベのネタを探してる時に、そういう悪玉キャラの行動パターンをいくつか想像してて面白いかもと思っただけである。
悪玉キャラ「人を油断させて出し抜く行為は最高に興奮するぜ!」
たしか、そういうセリフもネタとして考えていたと思う。
まずは、実体験に基づくところから進めると、ボクは寸借詐欺師に出会った。
寸借詐欺師「ちょっとすいません、1000円貸してくれませんか?」
ボク「(心の声)ちっ 寸借詐欺かよ ここはちょっとこいつの鼻をあかしてやろうかな」
と思ってたらかっこいいんだろうけど、実際にそういうことをだしぬけに持ち掛けられたことがはじめてでテンパってしまったのが事実の話。
後でふりかえった時に、これが寸借詐欺というものなのかと気づいたのだ。
寸借詐欺師「財布を落として交通費が足りなくて、ウンタラカンタラ」
ボク「はあー」
思わずボクは相槌を打ってしまった。はじめての空気で流れに乗せられてしまったのだ。
そういうふうに持ち掛けられて、そういえば自分も手持ちの金がないことに気が付いた。
ボク「ちょっと待っててください 家に帰って1000円持って来ますから!」
寸借詐欺師「わかりました 助かります」
片道が自転車で5分は掛かる家路を、なるべく待たせないようにとペダルに力を込めて急いだ。
戻ってきた時には、10分は経っていただろうが、往年の某歌姫の息子に似た男がコンビニの横の近くで待っていた。
ボク「はあはあ(息切れした声) すいませんね 待たせてしまって!」
ボクの様子を見て、相手は恐縮するような素振りすら見せなくなり、完全にこいつは馬鹿だと思ったのだろう。
横にあるコンビニを指して。
寸借詐欺師「レジの店員に、借りた1000円を預けておきますので、後で取りに行っていただければ」
冷静に考えれば本当になめ腐った態度だが、如何せん当時のボクは空気に飲まれていたので、ウソを見抜けず鵜呑みにしてしまった。
だが、取りに行くのが面倒くさいので、ここはいい人ぶってやり過ごそうと思った。
ボク「いいですよ 気になさらずに」
これは後日談だが、冷静になって振り返って自分の愚かしさに恥ずかしくなって、自分をニヒルなヒーロに仕立て上げて、ここは相手の出方を見るために、つまりは相手を試すために敢えて俺はこの1000円を寸借詐欺野郎にあげたんだということにしておいた。
そこで、ますます寸借詐欺師は完全にコイツは馬鹿だなと舐めてかかってきた。
寸借詐欺師「もしよろしければ、連絡先を教えていただきたいのですが・・・ 菓子折りの一つでも御宅へ持って行って、是非お礼がしたいです」
ここでその申し出を断って、良いかっこをしたかった訳でもないし、相手の度量の狭さを小馬鹿にしたかったわけでもない。
後でそういう設定にはしたのだけれど・・・。
相手がボクの素性を把握して、その後でもカモにしようとしていたのを、家に帰ってしばらくしてから気づいたのだから、完全にボクが馬鹿だったのだ。
ここでようやく、この男のどこか、そこはかとなく漂う胡散臭さに気づいたので、関わると面倒くさいんだろうなという考えに至って、その申し出を辞退しただけだ。
その時の相手の顔を見ると、多少拍子抜けしたようになっていて、少しばつが悪そうに無言になってどこかへ帰って行った。
寸評すると、ボクと寸借詐欺師の評価は本当ならドングリの背比べみたいなもので、 振り返るとお互い恥ずかしい話なのだが、最近またこの問題について考えると精神的なプライオリティーの面では確実にボグが上に立っていたのは間違いないはずだと自信がついてきたのでここに記している。
無意識ではあるが、相手をはじめて出し抜いた瞬間だったと思う。
もっと引っ張れると思った馬鹿に、連絡先を教えてもらえずに断られて、出し抜かれたのだ。
最後のあたりでは、打算的ではないところを見せたいだけのただのお人よしの馬鹿だと思っていたのかもしれないが、1000円のためにここでネタにされてるんだから、馬鹿にされた気持ちもわかるかもしれない。
たかが1000円されど1000円だが、たかが1000円のために馬鹿に出し抜かれたのだ。
これは、本当の話だ。
とりあえず、参考のために一例を挙げておいた。
皆さんも騙されないように、気を引き締めて生きてください。
ここからは、ボクの中のフィクションで、諧謔的にお茶を濁しつつ、決してありえなくはないだろうという話。
油断ばかりしてきた人間なので、馬鹿なりに騙されないように、いろいろそういう人たちの行動パターンを考えてきた結果、そういう経験を踏まえて出てきた答え。
いろいろあるので、ここで整理のために箇条書きにしてまとめておく。
【吹かしたがり屋さん】
人それぞれ武勇伝はある。
それをどう自分を知らない人にアピールするかは、社会で勝負している人たちにとって大切なことなのかもしれない。
自分の武勇伝を知り合いに話してもらうのが一番いいが、それが無理な人もいるだろう。
武勇伝がある人はまだいい。
全くない奴はどうするのか?
そういう場合は、社会でどう生きていけばいいのか、なかなか世知辛いものがある。
そこで使う自慢話やブラフは、果たして非難されるものなのか?
ボク自身は、自分にとっても他者にとってもいい結果をもたらす自慢話や吹かしはアリだと思う。
ここで、もっと穿ったやり方として思いついたのが逆のパターン。
実はすごい実力の持ち主なのに馬鹿を装うとか、金持ちなのにホームレスの恰好して相手を油断させる。
これは、暴れん坊将軍に代表される時代劇物や実在する偉人の逸話でも見られることだ。
紋切型の正統派ヒーロー物でよくあるパターンで、すぐに意図がわかってしまって使い古された手法なので、人に醒められてしまうだろう。
第一、ラノベや創作物ではなくて実際に起こったら、ギャップがありすぎてショックが大きく人によっては怒る人もいるだろうからトラブルの元だろうし。
だから、ありえなくはないだろうが、滅多にないだろうというパターンを考える。
例えば、顔の知れたIT企業の社長なのに有名な売れっ子タレントですみたいな微妙な身分詐称。
舞台で演劇もこなし、クイズ番組にも出て、トーク番組に引っ張りだこの人物。
微妙に似ている人物をチョイスして、身分を偽るとか。
まあ、これもよくある話だけど。
この微妙さ、一見意味がないことをやる俺かっこいいが面白い。
または、ある分野で実力者だという吹かしをワザとバレル形にして、実は他の分野ではすごい人だとひけらかしたい時にやるパターンもあるだろう。
【狂人が豹変】
確か、映画「ユージュアルサスペクツ」でも似たようなオチがあったと思う。
主人公が豹変して、そのギャップで観客を驚かすというのはよくあること。
ほとんどがそれかもしれない。
その中でオチだけ印象に残っているのが「ユージュアルサスペクツ」なので、ここで紹介してみた。
詳しくは、お近くのレンタルビデオ屋で実際に借りて参照されたし。
外で喚き散らしたり、周りの目を気にせずにブツブツと独白するような所謂狂人と呼ばれる人物や頭には異常がない身体障害者が急に豹変してくるパターン
「ユージュアルサスペクツ」は完全に悪党で知能犯のオチだけど、ボクのイメージでは意味合いが違ってくる。
映画でも小説でもお馴染みの「アルジャーノンに花束を」のほうが近い。
ボクがイメージしているのは、完全な知的障害者ではなくて、精神障害者よりの軽度な障害者のイメージだ。
そこから急に常人よりもむしろ高度な知性か理性を見せ始めるというパターンだ。
これは前述したのとは違って意識したり演技でやっているのではなくて、なにかの拍子に主人公は目覚めてはっきりとラディカルに成長していく。
それは、裏切られてのことなのか自分の不甲斐なさからくる怒りなのか?
なにかの外部的要因による感情の揺さぶりなのか自然的な何かなのか?
「アルジャーノンに花束を」は、人為的に脳に外科的施術法を用いて知的障害者だった主人公を天才レベルの頭脳明晰な人物に豹変させるが、ボクのイメージではなにが原因なのか漠然とした感じで、主人公が豹変するのだ。
漫画の「ナルト」をもっとどうしようもなくしたようなキャラの豹変と伝えればいいだろうか。
しかも、漫画の「ナルト」のように努力と根性という前向きな精神論では解釈しようがない要素も入ってくる。
漫画「ナルト」を読み進めていくと、だいぶ後からの話になるが、主人公ナルトが九尾の力がなくても、実は元から資質のある人物として後付けかは知らないが描かれているが、そういう意味合いでも断定できないのだ。
どっちかというとそういう精神論や本人の資質という解釈もできるが、漠然としている。
現実問題として、意識したり演技で狂人をやっていたらきっとどこかに綻びがでるので、演技じゃない成長なら他者に与えるインパクトも強くなるはず。
これは、ありえそうで滅多にないだろう神の奇跡に近いもので、超自然的な油断のさせ方だろう。
【激しい口論が一転】
人というのは、得てしてお互いの感情の高まり合いで激しい口論に発展する。
ボクは、両親や他者同士の口論を見たことがある。
もちろん、ボクも口論ぐらいはしたことがある。
最近では、youtubeなどで某配信サイト等の生放送での激しい会話のやりとりがアップされているので、それを観ている。
正直な感想を述べると、実に面白い。
台本でやっているという疑念が頭の片隅にあっても、それを時には忘れて一人で爆笑する時もあるし、本気になって腹が立っている自分もいる。
動画を観ると、大概の場合は激しい口論が収まらず、むしろ周りが煽り立てて延々と喧嘩してて、禍根を残して何年も飽きずにやっている配信者もいる。
リアル社会でも喧嘩の時は、当事者間では中々止まらずに仲裁に入る人が必要で、その仲裁者ですら巻き込まれたりして、悪い結果になる可能性もある。
一番手っ取り早いのは、当事者双方が折れるか当事者のどちらかが折れるかだろう。
動画の人たちを観ていると、すごい生命力に溢れてて羨ましいなと思う反面、そのエネルギーを別のところに使えないのかと不思議な気持ちになったりする。
余計なエネルギーを発散する人たちなんだなと他人事のように観ているボクだが、バランスのいいエネルギーの発散の仕方が、あまりボク自身もわからない(笑)
ここで口喧嘩を観ていると、いつも思うことだが、なぜ当事者のうち誰かが“怒りの寸止め”をやらないのか。
本気で勝ちたいと思うのなら、まずは“怒りの寸止め”で様子をみる。
一回折れるか、これも豹変パターンになるが急に優しく接してみたりして、変化球を投げてみる。
そっから相手を安心させておいてからの顔面フックみたいな。
生まれたての小鹿のように震えているかと思いきや、不意に怒号を浴びせたりするとか。
それと、たまに激しい口論の間に相槌を挟みつつ、ジャブを入れたり。
とは言いつつ、それは禍根を残して後々めんどくさいので、絶対やりたくない手段だけど。
ボクは、間寛平さんというお笑い芸人がよくやるネタで「きつく言ってごめんね」とケンカした後にだしぬけに言って、皆を笑わせて当事者の間も和むシーンが一番ベストだと思う。
入れ子構造
縦列に並んだ数字を覚える方法として考えたのが、碁盤や将棋盤の配置の覚え方と一緒で、縦横の並びを見て覚えるやり方があるだろう。
数独の得意な人ならもうやってるかもしれないが、縦5横6に数字の10があるとして
脳内ナンバリングで順に並んでいる数字の10を選んで、そこに5、6とか5-6でもいいので入れ込んで覚える方法。
縦列に並んだすべての数字を、さっきの要領で入れ込んでいって、終わったら、また別の縦列に並んだ数字を覚えるのなら、2重3重と脳内ナンバリングで順に並んだ数字に入れ込んでいく。
将棋なら、歩、銀、金、桂馬、香、王将、角、飛車を頭でイメージして、それぞれがどう動いたかを、棋譜の本を買ってきて、一度このやり方でやってみようかと思っている。
脳内で1,2,3,4,5と順に並んでいる数字が、ここでは将棋の駒の種類というわけだ。
それは効率が悪いだろと言われるかもしれないが、頭の体操なのでいい。
プロの棋士は、膨大な棋譜を覚えなければならないので、いちいちそんな煩わしいことはやらずに自然に何回も反芻して頭に叩きこんでいると思います。
いちいちずっと意識して頭に留める作業は、時間がかかって効率が悪く膨大な棋譜のパターンを覚えるのには、不向きだろう。
たぶん、プロの棋士はあまりボクのように意識せずとも実践になれば今までやってきたことが、自然に頭に浮かぶようになるのだろう。
それは、ボクのように脳内ナンバリングみたいにいちいち数字で区切って覚えることをせずともできること。
赤ん坊が親の会話や日常に触れていくうちに言葉を覚えるように、棋士は棋譜を長年にわたって、早い人なら物ごごろついて間のない頃から、観て触れて反芻して覚えていると思います。
ボクらが普通に言葉を話すように、棋士の人は棋譜を自然に覚えて将棋をするんだろう。
で、話は脳内ナンバリングのほうに戻すが、こういう数字の入れ子(マトリョーシカのイメージ)イメージトレーニングは、半年以上前から考えていた。
当初は、単に順に並んだ数字の一つ一つに不規則に並んだ数字の列を丸ごと入れ込んでしまって、入れ込んだ数字の一つ一つにもまた違う数列を丸ごと入れ込めばいいと思っていたが、果たして人間のボクではキャパが足りるのだろうかと心配になってきたので、他に覚えやすい方法はないかと模索していたところ、こういう縦横の並びで覚えるやり方にたどり着いたが、これでもまだ十分なものではないと思うので、もっと覚えやすいやり方をいろいろ考えています。
脳内ナンバリングをやって気づいたことがあって、ボクはこれで3回ぐらい脳内ナンバリングをやっているが、1回目と2回目のは極力忘れるようにするために意識せずに今の3回目に至っているために、前回の1回目と2回目のネタが一体どこの数字に収納されたものなのかまでは覚えていないけれど、前回に思いついたネタがまたリターンすることが度々あって、ボクは意識的に脳内で入れ子構造を作ろうとしているけど、たぶんボクたちの脳内ではいくつかの階層があって、脳に入れ子構造に近い機能が隠されているのではないかと感じた。
繰り返し脳内でナンバリングしてるネタを頭でチェックして、ある程度覚えて飽きて来たら、ナンバリングしてあるやつを意識しないようにしてチェックすることをやめて、また新しいナンバリングをしていく、慣れて来たらまたやめて、また新しいナンバリングに取り掛かるといった思考をしていくと自然と入れ子構造になっていくかもしれません。
まだボクは3回目なのでもっとやっていくうちにわかってくるかもしれません。
これは仮説なので確証はないけど、脳って不思議なことが多いなと改めて思います。